『幻想文学論序説』との比較

 これまでも何度か言及してきたが、幻想文学の研究に関して、印象批評ではない科学的な分析を試みた書物として、ツヴェタン・トドロフによる『幻想文学論序説』がある。方法論の比較をする意味で、これに関しても検討しておきたい。

 この書物について、アトベリーは「ファンタジーの意味を混同して用いており、そのためにこの本はここでわれわれが論じようとしている論点とほとんど関わりのないものになっている」と極めてそっけない。確かに、アトベリーの扱うようなファンタジィは、トドロフの本の中にまったく出てこない。しかし、『幻想文学論序説』のほうには、「フェアリィテール=妖精物語」についての言及がはっきりとあるのである。

 また、『幻想文学論序説』は、幻想文学に対するジャンル論としてもきわめて興味深い考察をおこなっている。というよりも、この書物全体が、「幻想文学」を一つのジャンルとして定義するための、ジャンル論である。

 トドロフは幻想を『自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである』と定義する。この「ためらい」をいかにして起こすか、ためらうのは結局のところ作中人物か読者か、などといった点について詳細な議論を展開する。幻想文学は、吸血鬼や、時間や空間の歪み、薬物などといった要素によって超自然的な現象を引き起こし、そういったものの説得力によって、合理的科学的な現実意識を破壊しようと企図するのである。

 「ためらい」は、合理的な説明付けと、超自然的な説明のどちらを採用するべきかという点に関して起きる。そして、ためらうのは作中人物である場合もあり、読者の場合でもある。つまるところこれは「読者の機能」ということになる。読者は作中人物と同様、何ら特権的な視点を得ているわけではなく、作中人物にとって判断が困難なことは、読者にとっても判断が困難なのである。

 トドロフの幻想文学論の特徴は、「ためらい」という点と、「驚異」と「怪奇」の境界領域が「幻想」であるとするジャンル論にある。「驚異」が超自然的解釈に、「怪奇」が合理的解釈に対応している。トドロフにおいては、読者がためらっている間のみ幻想はその姿をあらわしており、ひとたびその「ためらい」が捨て去られ、超自然的解釈か合理的解釈のどちらかを選択したときに、幻想文学は別のジャンル、つまり「驚異」のジャンルや「怪奇」のジャンルとなってしまうのである。

 ただし、この超自然的解釈と合理的解釈のそれぞれの領域においても、作品の性質によって、二分される。これは左の通りである。

 |純粋怪奇|幻想的怪奇‖幻想的驚異|純粋驚異|

 幻想は「幻想的怪奇」と「幻想的驚異」の間にのみ存在している。ここではそれぞれの定義について深入りはしないが、簡単にまとめると次のようになる。

純粋怪奇
 本来、理性の法則で完全に説明がつくはずのものだが、それが何とも信じがたく、異常で、いまわしく、奇妙で、不安をそそり、尋常ならざる出来事であるため、幻想的テクストでおなじみになったのと類似の反応を、作中人物や読者に起こさせる。ポー『アッシャー家の崩壊』など。
幻想的怪奇
 物語を通してずっと超自然的と思えてきた出来事が、最後になって合理的説明を施される。しかしその合理的説明には本当らしさが全くなく、超自然的説明のほうがよほど納得がいく。ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』など。
幻想的驚異
 幻想的な物語として打って出ながら、最後は超自然を受容して終わる物語。テオフィール・ゴーチェ『死霊の恋』など。
純粋驚異
 超自然的要素が、作中人物にも、テクストに暗示されている読者にも、何ら特別な反応を呼び起こすことがない。驚異を特徴づけるのは、語られた出来事に対する特定の反応ではなく、そうした出来事の本性そのものである。妖精物語、『千夜一夜物語』など。

 一通り並べて見ただけですぐに看取できることがある。作品が最後に合理的解釈をとるか、超自然的解釈をとるかという点で作品のジャンルを分割することは、容易に受け入れることができるが、それぞれが「怪奇」や「驚異」と結びつく理由が、不明瞭なのである。そもそも「怪奇」と「驚異」を対立的に設定することは、非常に恣意的であるし、この二つが等しい意味の重さを持っているとは言い難い。

 あるいは翻訳の問題で不自然さがいや増しているのかもしれないが、その点を差し引いたとしても、これら四つの定義は「怪奇」や「驚異」という語ではくくりきれない広がりを持っている。また「怪奇」や「驚異」といった語に、ジャンルを表現するにふさわしい一般性や抽象性を認めることも難しい。「怪奇」の代わりに「現実」を、「驚異」の代わりに「非現実」を使ったほうがよほどすっきりする。

 「現実」「非現実」という語は、ファンタジィを扱うために非常に有用である。ある出来事が幻想的か否かは、それを体験した者の現実感覚に依拠している。合理的解釈をとるか、非合理的解釈をとるかという「ためらい」は、ためらう者にとって近代的合理主義精神こそが「現実」に属しているからである。そのような精神を持たない者にとっては、また別の「現実」感覚があるのである。

 このような意味で、トドロフが幻想文学を十九世紀のものとしてその終焉を宣言したのは、最もなことだといえる。近代的な合理主義精神への信頼のないところに、超自然が介入し「ためらわせる」余地はないし、逃避すべき異世界もない。ポストモダンの私たちの状況はまさにそうであり、現実と非現実の間を行ったり来たりしているのである。

 それはともかく、トドロフのこの四つジャンル分けからは、アトベリーに「ここでわれわれが論じようとしている論点とほとんど関わりのないものになっている」と言わせたその原因を見て取ることができる。トドロフが「妖精物語」を「幻想的驚異」と分類しているのが、間違いのもとである。

 トドロフの「妖精物語」に対する議論は、驚くほど粗雑で曖昧である。基本は「超自然的要素が、作中人物にも、テクストに暗示されている読者にも、何ら特別な反応を呼び起こすことがない」と問題があるようにも思われない。しかし「妖精物語」において作中人物や読者が、作品のなかで起こっている超自然的な出来事に「驚かない」のは、当たり前のこと、いやむしろ前提なのである。

 トールキンは「第二世界の中にあっては、準創造者の語ることは<真実>である。すなわち、それはその世界の法則性に合致している」と述べている。つまり妖精物語には、その内部でのみ完全な蓋然性をもつ法則があり、それは私たちの現実における法則とは無関係なのである。換言すれば、作品内の出来事が私たちの目から見ていかに「非現実」に属していようと、その作品を読んでいる限り、私たちは「現実」に属しているのだ。

 トドロフの「純粋驚異」は、非現実を描きながら現実的な体験を提供するジャンルなのであって、そこには「ためらい」の要素は微塵もない。その意味で、ほかの三つのジャンルと全く位相が異なるのである。『指輪物語』をファンタジージャンルの中心概念とするアトベリーとは、故に、全く異なる次元に位置していたということになる。

 さて、アトベリーとトドロフを検討することによって、私たちはファンタジィ分析に有用ないくつかの方法を手に入れることができる。異世界物語やポストモダニズムは関係のない、いわば「古い」種類のファンタジーについては「ためらい」の理論が、ファンタジィ全般に関する手がかりとしては「形式と様式」の理論がそれぞれ役に立つはずである。次章ではこれらをまとめ、更にいくつかの未整理な事柄について注意を傾けてみたい。