アトベリーは、『指輪物語』を「ファンタジィ」のジャンルの中心概念として措定し、他のファンタジィと呼称される作品の拡がりを、『指輪物語』との比較検討によって測量し、同時にそれを手がかりとして、ファンタジィそのものの機能や意義について理論を展開している。
つまりあるジャンルは一つの作品が原型として意識され、そこから離れたものほど、そのジャンルから「遠い」ものと理解されるのである。アトベリーが意識しているジャンル分類の方法は以下の二つである。
「ファンタジーの諸ジャンルは、他のものの分類と同様、ふつう地図上の領域としてとらえられる。ハードボイルドの作品は、古典的な探偵小説と領域を区分けされ、SFはファンタジィと異なる領域に入れられる。候補となる作品を調べた上で、批評家たちは、作品の特性一覧表と照らしあわせて、ある作品をファンタジーといういわば連合軍側の領域にいれたり、SFというソヴィエト軍の領域に入れたりするのである。ただしその時には、実は異なる領域の作品どうしにはお互いにつながりがあることには目をつぶっていることが多い。」一章四十頁
「ジャンルについて考えるときに、作品があるグループに属すると思わせるのは、われわれの意識や、書き手たちの意識である。そこで、ジャンルの決定には、先行する作品が重要になる。例えば、デュパンや、ホームズ、サム・スペード、それにミス・マーブルなどの探偵の物語は、推理小説というそれ自体かなりあいまいなジャンルのいわば「駒鳥」である。そしてその古典的な推理小説から、やがてハードボイルドの作品が出てきたように、もとのタイプから派生して一人立ちできるものが出てくると、それが新しいグループとして認識されるのである」一章四十二頁
少し長めに引用してみた。前者で重要なのは「候補となる作品を、作品の特性一覧表と照らしあわせてジャンル決定すること」である。分類が地図上の領域としてとらえられることについては、ジャンル決定一般についていえる事で、その方法(特性一覧表をつくったり、中心概念を定めたり)とはあまり関係がない。これはトドロフ『幻想文学論序説』でも議論され、同時に批判されている方法でもある。しかしトドロフは特性一覧表を人物や出来事などの恣意的な項目で作成するのではなく「驚異」と「怪奇」の「ためらい」という構造形式に求めたのである。
後者で重要なのは「ジャンルの決定には、先行する作品が重要になる」の部分である。アトベリーは『「鳥」というカテゴリーは「駒鳥」のようなそのジャンルの中心にある原型的な例からなっており、そこからの隔たりによって、「だちょう」や「ニワトリ」、「ペンギン」といった論点の分かれるものがあり、存在自体があいまいな「こうもり」といったものもそこに加わる』という説を支持しており、ファンタジィにおけるジャンル論も、これを援用したものとなっている。
これはジャンル論として一つ大きな利点がある。あるジャンルの内部で、そのジャンルの定義そのものを塗り替えてしまう作品が現れたときに、極めて柔軟にジャンル定義の変更をうながすことができるのである。それは『指輪物語』が、異世界の精密な構築を行ったことにより、ジョージ・マクドナルド『ファンタスティス』やウィリアム・モリス『世界のかなたの森』などの私達の日常世界に片足をおいた「ファンタジィ」から、時空の異なる「異世界ファンタジィ」というジャンルが生まれ、同時に「ファンタジィ」というジャンルをも拡げてしまったことと、はっきり呼応する。
トドロフは同じ事を、より一般的に『「ジャンル」、「スペシメン」といった用語は、自然界の生物について用いるか、精神が生み出した作品について用いるかによって、その意味に質的な相違が出てくる。前の場合は、新しい標本が現れたからといって種の特徴はかならずしも変化しない。(略) ところが、芸術や学問の領域になるとそうはいかない。(略) どのような作品であろうと、すべてが、ありうる作品の総体を変化させる。新しい標本のそれぞれが種を変更するのだ。』と書いている。
つまり文学の領域ではジャンルは容易に一つの作品に従属する。その意味で、アトベリーのジャンル論はきわめて興味深く、人がごく日常的に一つのジャンルを認識するときの方法とも、よく似通っている。
私達があるジャンルについて言及するとき、頭の中には常に代表的ないくつかの作品が想定されているものだし、またそうでなければそのジャンルに対する言及は中身のないものになりがちある。また、ことによると、それぞれのジャンルについて言及したすぐ後で、そのジャンルに属する個別の作品についての批評を展開したりもする。
例えば、「私小説」というジャンルについて何かいうとき、田山花袋『蒲団』は念頭にあるだろうし、そのジャンルについての意見を一通り開陳したあとに、水村美苗『私小説 from left to right』の私小説ジャンルにおける斬新性を問題にするといったようなことがある。ジャンルについて言及を始めたときから、『私小説 from left to right』は念頭にあり、そのジャンルにおける新しさを説明するために、ジャンル論を展開するのである。
このようなジャンル論は一つの作品が複数のジャンルにまたがっている現象をもうまく説明することができる。つまり、作品AはジャンルXにおいては中心的な作品だが、ジャンルYにおいては周縁的な作品である、と言った具合である。『指輪物語』はファンタジィにおいては充分に中心的な作品だが、リアリズム文学としては非常に周縁に位置していると言える。
さてアトベリーの主な戦略は、今まで見てきたようにファンタジィというジャンルの中心概念を『指輪物語』に求め、他の作品を指輪物語との比較において検討するというものである。しかしながら、やはりここでまた「ファンタジィ」の語の意味内容の広さが障害となる。つまり現代的な、ポストモダニズムの作家たちもファンタジィを武器としているのである。
彼らがトールキンの作品に目を向けたのは、二十世紀の幻想文学を扱うのに、トールキンは避けて通れないからというだけの理由であった。本当のところは彼らが論じたかったのは、カフカであり、ロブ=グリエであり、あるいはピンチョン、バース、カルヴィーノ、ボルヘス、レムといった作家の幻想文学だったのである。(三章八十七頁)
「彼ら」というのは、ローズマリー・ジャクソン『ファンタジー――転覆の文学』、クリスティン・ブルック=ローズ『非現実の修辞、ドン・D・エルギン『幻想文学の喜劇』などを指している。アトベリーは彼らの『指輪物語』批評を検討したのである。これらは構造主義、精神分析、物語論などの、二十世紀の文学理論に基づくものであり、ポストモダニズムの流れと同調していると見做すことができる。つまり西洋合理主義的な世界観をくずす文学としての幻想文学およびその批評である。
しかし我々は本論ではこういう現代的な作品については、『指輪物語』や『はてしない物語』などとは別種のものとして、一度脇に置いておきたい。いわば世間一般に「まじめな文学」と思われているような「ファンタジィ」はいったん脇へ置き、「お気楽な、ときには古くさい読み物」と思われているようなものに眼差しを向けたいのである。
もちろん「まじめな文学」についても視野に入れ、おそらくそういった作品が神話や民話の形式に向ける眼差しは、より徹底した、自覚的・意図的なものであるが故に、避けては通れないだろう。しかしながらそれらは、現在一定の評価を得ている。また『指輪物語』から出発した我々にとって、まずは「第二世界」について取り組むことが肝要でもあろう。
従ってトドロフが分析不能としたような、カフカ『変身』やポストモダニズムに関して意識的に取り組んでいると思われるような作品については今のところ考察をすすめない。ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』は視野に入れるが、同じ作家の『鏡のなかの鏡』は括弧にいれておくのである。
基本的には、この立場は「現実/非現実」の境界線の有無に由来しているとも言える。『変身』は、あたかもメビウスの帯のように、現実の延長に幻想があり、幻想の延長に現実があるのである。読者の機能による「合理的解釈」と「超自然的解釈」の間の「ためらい」に幻想文学の構造的特徴を見出したトドロフは、「ためらい」の存在しない、言いかえれば境界線の不確定である、現実と幻想が連続し共存している作品において幻想文学の終焉を宣言したのであった。
我々が問題としたいのは、そのような作品ではなく、非現実の要素によって構築されていながら、日常世界に勝るとも劣らない異世界について、あるいはそのような実在性についてである。そこには明白な境界線が引かれており、此岸と彼岸が存在する。
現代的な作品を分析するにあたって、そのための新しい方法論が、それ以前のものに適用できないというのではない。しかし新しい方法論でなければ分析できないような現代的な作品と、それ以前の古い作品は、明らかに質的に別種のものなのだ。
アトベリーの議論には、このような作品の質に対する視点が欠けている。それが戦略的なものか、混乱に由来するものか、あるいはそれほど重要な問題としなかったからかは判らないけれども。彼はポストモダニズムの流れにある幻想文学を、『指輪物語』にどれだけ似ているか、という観点から分析する。
これは『指輪物語』をファンタジィのジャンルの中心をなすものと措定したが故のひずみであろう。ポストモダニズムの作品は、「ファンタジィ」としても中心に位置されるに充分なほど強力なのだ。そして不幸なことに、その作品としての様式も形式も『指輪物語』からは極めて遠いのである。同じ「ファンタジィ」という語で呼ばれいても、両者の間には大きな隔たりがあり、故にこれらはほとんど別種のものとして扱うのが実際的である。同一のジャンルとして、どちらか一方を中心概念をなす作品とする方法は、ここに限界をみることになる。
なおアトベリーはモダニズム、ファンタジィ、ポストモダニズムの関係について一章を割いている。このようにわけた場合のファンタジィは「マクドナルド、モリス、トールキン、ルイスなどにつながるファンタジーの伝統」を意識したものである。トドロフのいう「フェアリー・テール」すなわち「異世界物語」の系統である。
その意図は、モダニズムの分析方法よりも、ポストモダニズムの分析方法がファンタジィの分析になじむことを示すことにある。そのために、アトベリーは第三章において『指輪物語』とジョン・クロウリー『リトル・ビッグ』を比較する。
またトールキンの「創造的なファンタジーは、この世界の物事を白日の下にあるがままの姿でしっかりと認識する。事実にただ従うのでなく、事実を認識するのだ」を引用し、このような厳しい現実認識と現実の動かし難さはモダニズム文学の特徴そのものであるとする。『指輪物語』はモダニズムというコインの裏返しなのである。
そして「一方、ポストモダニズムの作家は、フィクションと真実の区別をあいまいにすることを好む」「トールキンが興味をしめすのは、幻想を維持することであって、それを破ることではないのである」によって、(伝統的な)ファンタジィとポストモダニズムの幻想文学との間に、明確な一線を引いてはいるのである。ポストモダニズムの作家は、コインに表と裏があることを認めないということである。
つまりファンタジーは、現実と非現実を厳然と区別するという点ではモダニズムに近く、幻想に注目するという点ではポストモダニズムに近いのである。アトベリーがモダニズムの分析方法ではなく、ポストモダニズムの分析方法によったのは、結局のところ幻想を排除するか、それに言及するかという違いである。
ファンタジィとポストモダニズムの作品の間に明確な一線を引き、同時に、理論的な親和性のために、ポストモダニズムの方法論においてファンタジィを回収しようとするのは、いささか詭弁じみているといわねばならない。
ファンタジィには、たとえば『妖精物語の国へ』などのような、ある程度ファンタジィそのものを語るのに即した理論が必要なのである。