ファンタジィの語源的な考察はここまでとし、次にジャンルとしてどのようなものが「ファンタジィ」と呼ばれうるかを考えてみる。fantasyは非実在性を要素として必ず含むジャンルであるが、これは実際には、神話、民話を始めとして、叙事詩、ロマンス、散文小説など、ほとんど文学作品の全体そのものである。むしろ近代的な科学意識の産物である写実主義、自然主義の一部や、より細分化されたジャンルである社会小説などにおいてのみ、ファンタジィの呼称を免れているのだとも言える。また非実在性の意味を可能な限り敷衍するならば、あらゆる文学作品はファンタジィであると極論できるし、実際そのような記述はよくなされている。現代の多様な出版状況を省みるなら、趣味や仕事のための実用書、辞書辞典といったものは流石に除外されようが、それらはそもそも(一般的な態度をとる限り)文学作品ではありえない。
ブライアン・アトベリーは「ファンタジーには、『不思議の国のアリス』や『真夏の夜の夢』、『黄金のロバ』、それに『失楽園』や『神曲』などの、古い時代の作品も含められることがある。こうなると、これだけ広範囲な作品をすべて統括するファンタジーの定義が現実にありうるかどうかははなはだ疑問になるのである。」と述べている。仮にファンタジーの定義を「非実在性を要素として必ず含む」と定義したとしても、それだけでは充分なものとはならないのである。
我々が非実在性に関して言及する時、つねに実在性の、つまり存在論的な問題に直面している。両者はコインの表裏であり、相補的であり、不即不離である。言語は語として、また文として生起し、成立し、使用されるにあたって、必ずその論理的な否定形を、影のように或いは反物質のように背負っている。
例えば共同体の幻想、家族の幻想、勝利の幻想などというように、ファンタジーは確固として実在すると見えたものが、本当は存在しなかったのだという意味で日常的に使われる。なお我々がここで一層注意しておきたいのは、illusionとfantasyの区別である。前者は、その存在の確からしさの点でfantasyに譲る。つまりfantasyとは疑いもなくrealであるという要素をも含むのである。非実在でありながら、実在しているように思われる、この曖昧さ、意味、媒介性といったものがファンタジィの大きな特徴であることは確かである。それはツヴェタン・トドロフの「自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである」を一歩進めた考えである。トドロフの『幻想文学論序説』が扱うのは主にillusionの領域であり、妖精物語や神話、民話、異世界物語といった作品群の、えもいわれぬ現実味に関してはほとんど語っていない。
そのような作品群は、構造主義の言葉を借りれば、神話的な思考そのものである。神話や民話そのものが神話的であるのは当たり前ではあるけれど。また一方では構造主義的分析が示すように、現代の我々の生活様式や物語や政治といったものも、原始的な文化をもつ民族と同一の神話的構造を持つものであり、一般的な文学作品もこのような視点から分析され得る。
最もこの視点には、ファンタジィかそうでないか、正統的であるか通俗的であるかといった価値判断を重視せず、むしろそれらを同一の地平線上に置いて同価値のものとして論ずるという態度が共通しているが、ことさらファンタジィに拘る我々の立場から考えるならば、科学的合理主義が浸透した現代の人間にとって、神話や民話そのものではないもの、つまり小説などの形式で表現されるファンタジィにおいては、初めから「神話的」であることを宣言しているのだと把握したい。
言い換えれば、神話や民話そのものとは異なり、『指輪物語』に代表されるような様々のファンタジィ作品といったものは、神話や民話の諸形式を意図し、それをそのまま踏襲しているのである。世間一般的な言い方になぞらえるなら「嘘を嘘とわかった上で」或いは「昔々のお話として」語るということになる。
ここでいう「形式」とは、俳句が五七五であるとか、起承転結の展開であるとか、日本舞踊における五構成であるとかいうのはもちろん、さらわれたお姫様を竜の手から救い出す、失われた聖杯を探求する、敵討ちを果たすというような物語上のパターンと呼ばれるもののことでもある。何にせよ、構造というような無意識的なものではなくて、容易に意識されうるもの、ドラマツルギーにおいて問題とされうるような諸々の形式のことである。
神話的であることを意図するファンタジィ=現代のファンタジィは、そうでない身振りをする――形式において神話や民話を必ずしも意図しない作品、或いはそこから脱却することを意図する作品とは区別されるべきである。それは構造的な意味でどうであるかを問わない。我々が問題としているのは、幾分表面的な形式における差異である。
「今から話すことは本当のことです」このような告白の態度こそ、おそらくファンタジィからは最も遠い。ファンタジィは、その実在性を自ら声高に主張することはなく、ただ物語の語り手自身の手腕と、読者の態度によって、いわば語り手と聞き手の相互関係によって、内的な現実性として成立するのである。
このような実在性――語り手と聞き手の関係について、J・R・R・トールキンはこのように述べる。
物語作者は、読者の心が入っていける<第二世界>を創った。作者が物語ることは、その世界の法則に照らす限り「ほんとう」なのだ。読者はその世界の内側にいる限り、その世界が本当だと信じる。「不信」が頭をもたげたとたん、呪文は解ける、というより、芸術という魔法は失敗したのである。読者は再び第一世界に戻って、外側から、失敗に終わったちっぽけな第二世界を眺めることになる。
ここで言う「第一世界」とは我々が生活し、現実として受け入れている日常世界のことであり、「第二世界」とは人間がその想像力によって創り出した神話・物語などの世界のことである。トールキンは、この文のすぐ前で「不信の自発的停止」("willing suspension of disbelief")について言及しているが、これが観客側の態度のみを表しているのを不充分とし、「物語作者は<準創造者>として成功したのだ、とわたしは言いたいのである」と述べている。<準創造者>(sub-creator)というのは、世界を創造した神に、人間の創作能力を、世界を創る能力としてなぞらえたトールキンの言葉である。
非常に示唆に富んだこの言明の中に、我々はいくつかの、重要な芸術に対する態度を看取できる。一読して判るように、トールキンにおいては、テクストに対して作者が読者に優越する。虚構の物語に対して、読者が居ずまいを正して、或いは薄ら笑いを浮かべながら、椅子に腰掛けて意識的に「不信を停止」するのではない。不信とは何に対する不信であろうか? 日頃慣れ親しんだ近代的な考え方、社会的常識、概ねそんなものだろうか。何が起こっても驚きゃしないぞ、所詮嘘っぱちのお話だ、とばかりに物語に対して身構える――これが「不信の自発的停止」の正体といえるだろう。
トールキンが「物語作者は、読者の心が入っていける<第二世界>を創った。」と言うとき、これは作者―読者という機能的な関係ではなく、語り手―聞き手という有機的な関係を念頭においているものと思える。物語の語り手を前にして、聞き手は期待を胸に抱く。歌舞伎のお囃子や、紙芝居昔話が始まるまえの静けさ、本を手に取ったときの紙の匂いや装丁の美しさなどが醸す独特の緊張―期待の雰囲気、満を持して発される語りの第一声、ぐいぐいと引き込まれていく感覚。そういったものは不信の停止というような、賢しげな冷めた態度ではなく、おそらくもっと娯楽的で快楽的な、語り手による魅了の力なのである。
もちろん我々は、作者の意図とか思想について云々したいのではない。作品において最も重要なのは「語り手」であり作者自身ではない。トールキン自身も作者が語り手と同一視されるのを望まないだろう。<第二世界>が読者を魅了するのであり、作者自身の肖像が読者を魅了するとは考えていないところに注意が必要である。すなわち語り手とは作品そのものが語りかける力なのだ。
芸術とはつまり「芸」によって成立する作品である。器用仕事(bricolage)であり、余人の模倣ならぬ独特な実在ともいえるだろうか。何れにせよ作者自身ではありえない。トールキンは『指輪物語』を初めとする精妙で緻密な異世界を、彼自身の言に従えば「第二世界」を創出し、言葉の綾なすその魅力が人々を捕らえるのである。
この語り手による魅了の問題は、もっと良く考えられるべきであると思う。芸術作品は主義主張や思想や新聞記事や個人的感情の代替物ではなく、もちろんそれらをも含むものではあるが、それ自身半ば自律した一つの体系ともいえるだろう。作者によって生み出された作品は、その手を離れた時から巷間の人々の視線に晒され、いわばその解釈の海を漂い、他の諸作品と比較され、参照され、次第に独自の意味内容を帯びてくるものである。作品の語る声が魅力的であれば、時代や空間を超えて愛され、産み落とされた時よりも、より豊かな、多様な姿となって記憶され、生き続ける。そうでなければ、おそらくはすぐに忘れ去られて、甦ることもなくなってしまうのだ。
先にファンタジィとは非実在性を要素として必ず含むジャンルであると書いた。つまりファンタジィは、我々の日常世界において存在しないとされているものについて語っている。しかしながら、それが物語の聞き手にとってそれほど重要なことだろうか。それは「嘘いつわり」というような否定的な、排除されるべき対象なのだろうか。違うと思う。人の想像力によって創りだされた諸物は、いま現前している世界と別の世界を垣間見させることができる。それはその限りにおいて「現実」なのである。