「fantasy」という語は「幻想」「空想」などと訳されている。しかしこの「幻想」や「空想」の出自ははっきりしないようだ。「幻想文学」に関しては、須永朝彦『日本幻想文学史』において、「浪漫主義以降の西洋文学享受の果てに想定かつ形成されてきたことだけは確かだと申し得るので、誰がいつ使い始めたかはともかくも、呼称として定着し始めたのは昭和四十年代に至ってからではなかったか」とある。なお同書では国文学者の千葉宣一氏の「澁澤龍彦と中井英夫」の冒頭で、「明治十四年刊行の『哲学字彙』で初めて、Hallucinationの訳語として、≪幻想≫が登場。」という一節に触れており、「幻想」という言葉は、「欧語に対応する漢語が盛んに新造された明治十年代の産物ではないか」としている。要するに「幻想」とは、翻訳の中で生まれた比較的新しい造語らしいということになる。
しかし、だからと言って日本に「幻想」「fantasy」の名によって表されるジャンルがまるで無かった、「幻想=fantasy」とは全くの輸入物であったのかということになると、首を傾げたくなる。そもそも「fantasy」という言葉が、西欧の文学において一つのジャンルを表すものであったのか、いささか疑問に感じるのだ。後に触れるが、もしかすると、文学のジャンルとして「fantasy」が使われ始めたのは、比較的最近、18世紀、19世紀ごろではないかとも思う。つまり欧米にせよ日本にせよ、「fantasy」なる文学ジャンルが形成されたのは、比較的最近のことではなかろうか。
さてここで、もう少し語の意味をはっきりさせるために辞書を引いてみる。すると、「fantasy」とは「(1)幻覚、とりとめのない創造的空想、(2)気まぐれ、酔狂、奇抜な考え、(3)収集家のためのコイン、(4)幻想的文学作品」となっている。(3)の説明はとりあえず我々の議論にそれほど関係ないとして、語義説明には「create」や「image」という語が目立つ。単に頭の中に諸々を思い浮かべるだけではなく、それにある一定の秩序や形式や説明を与えたものだという理解ができようか。また「fancy」であるという説明もなされている。「fancy」とは「fantasy」を短縮した語である。
一方、「幻想」という語に関係が深く、似たような意味、翻訳がなされている語として「illusion」があるが、こちらは「(1)欺き、錯覚、考え違い、(2)妄想、見間違い、幻覚」となる。「mislead」や「decive」という語が目立つ。本当と見えたものが、実は違ったというような、「欺き」のニュアンスが多いといえよう。
つぎに翻訳されたほうの語である「幻想」について国語辞典を引いてみると、先に書いたように「hallucination」の訳語であるとなっている。『哲学字彙』より古いという記述は無い。しかしながら、「まぼろし」を引いてみるなら、「実在しないものの姿が実在するように見えるもの。また、たちまち消えるはかないものの例えにいう」とあり、こちらは平安初期からある古い言葉である。また「幻覚」「幻影」なども同じように古くからある。
また漢和字典で「幻」を引けば「(1)まどはす。たぶらかす、(2)かはる、(3)まぼろし。假像」とあり、「本義はまどはす、その字形は予(あたふる)の字を反倒し、あたへる真似してあたへず、人をたぶらかす意にとる」「染色した絲を木枝にかけたさまに象り、かはる意を表す」とある。
つまり「幻」という語は「illusion」と意味が似ているらしいといえる。どちらも「欺き」や「思い違い」といった、実際の姿とは異なる、見せかけの姿を意味する言葉である。では「illusion」と「fantasy」の違いはどこにあるか、ということになれば、先にも述べたとおり、頭の中に思い浮かべた、様々な実在しないものに一定の秩序や体系や説明を与えるということになるだろうか。
現在「ファンタジィ」と呼ばれているものに、「非実在性」が欠かせないということは、一見して明らかである。「ピーターパン」であれ「指輪物語」であれ「ハリーポッター」であれ、およそファンタジィと呼ばれうるものは、如何なる形式であっても、例えば「空を飛ぶ」「動物が人語を話す」「魔法を使う」というように、我々の日常生活においてありえない出来事を、要素として必ず含んでいる。
問題は「fantasy」と「illusion」、つまり「幻」と「幻想」の違いである。どちらも非実在性に根ざしながら、そこには微妙な違いがある。この違いはまた、「fantasy」に当たる言葉が「幻想」という造語を得るまで日本語の語彙に存在しなかったことであり、それはつまり「fantasy」にあたる概念が日本に存在しなかったということにもなる。
ソシュールによって大きく影響を受けた言語学や哲学において、分節化されていないものは存在していないに等しい。名づけられていないもの、記述されていないものは認識され得ず、より外延的な記号の意味の内に溶け込んだり、要素として分解されているともいえようか。creativeなimageであるfantasyは、それ自身としては日本語の概念に存在せず、おそらくは「幻」と同一視され、「夢」や「来世」などに幾分その要素が含まれているのではないかと考える。
そもそも「まぼろし」を「おもう」ということがいくぶん奇妙であり、虚像である幻によって形作られた世界を構想するというのは、寡聞にして日本の例を知らない。しかしながら、この世を仮の宿りとし、夢まぼろしのごとく儚いものと考える傾向は実に見慣れたものである。この違いは何だろうか。手がかりは、人々の現実感覚にありそうにも思うが、いま一つはっきりとしない。
「幻想」が「hallucination」の訳語であり、これは心理的神経的な要因による幻覚を表す語であるから、そもそも「fantasy」を示す言葉ではなかったということを考えると、「fantasy」=「幻想」の日本における源は全く曖昧模糊としている。或いはファンタジィもまた、西洋合理主義と同じく輸入物であったといえるかもしれない。