二章 分析方法の検討

 ファンタジィ文学分析のために、方法の検討をしたい。中心にすえるのは『ファンタジー文学入門』である。原題は“STRATEGIES OF FANTASY”であり、著者はブライアン・アトベリー(Brian Attebery)である。ファンタジィについて、現代の文学批評理論を援用しながら、写実主義に対峙するものとして考察している。その手法上の特徴は、1)ファンタジィに対する批判を主に「形式(form)」に関わるものとして退け、2)ファンタジィは「様式(mode)」の面から分析・評価するべきであるとするところにある。またファンタジィのジャンル概念を、3)『指輪物語』を「ファンタジィ」のジャンルの中心概念として措定することによって行っている。

 ファンタジィについて包括的に分析の方法を論じたものは少なく、また確立もされていない。ファンタジィとは、おそらくジャンルが生まれた時から文学全体の周縁に位置していた。分析の為の方法研究の一助とするため、ここでアトベリーの見解について検討を加えてみたい。

定義について

 アトベリーによれば、ファンタジィの定義には二つある。

一. ファンタジーの作品には、きまって型どおりの人物が登場し、魔法使い、ドラゴン、魔法の剣といった、これも型どおりの道具立てが見られる。逃避的な大衆文学の一つであるファンタジーでは、このような要素が組み合わされて、話の結末がいつも予想どおりになる物語の筋立てがつくられる。その結末は、きまって数の少ない善なるものが、圧倒する数の悪に打ち勝つことになっている。
二. ファンタジーは、おそらく二十世紀後半の主要なフィクションの様式(モード)といえよう。その物語構造は、けっして単純ではなく、文体の遊戯性や、自己言及性、既製の価値観や思考の逆転などがめだった特徴として見られる。また象徴体系や意味の非決定性などの、現代的な観念を取り込むのも特徴である。その一方で、ファンタジーは、叙事詩や民話、ロマンス、神話など、過去の非写実的な口承文芸の持つ活力と自由さを自在にとりいれている。

 アトベリーは、一.のファンタジィは、ピアズ・アンソニーやロバート・E・ハワードなどの大衆作家に属するものとし、二.のファンタジィは、イタロ・カルヴィーノやホルヘ・ルイス・ボルヘスなどの野心的な作家に属するものとしている。ファンタジィの作品群を二つに分け、一方には価値があり(野心的な作家のもの)、他方はそうでもない(大衆作家のもの)とすることが、ファンタジィ作品そのものの価値、あるいは分析について有効かどうか少々疑問ではあるし、幾分恣意的なものも感じる。

 しかしアトベリーの意図は、同じファンタジィの作品に、形式と様式の二面があることを明らかにし、読者によって、そのどちらが主に意識されているかで、作品に対する価値が分かれる、というところにあるのだろう。

 つまりファンタジィの定義の一.は形式に関わる定義であり、二.は様式に関わる定義ということになる。これは、ややもするとファンタジィは形式としては見るべきところが無いが、様式には見るべき価値がある、と理解される怖れがある。またファンタジィとは神話的であることを意図した「形式」であるとする我々の考えとは、自ずから用語の使い方も異なっている。

 アトベリーが作品における「形式」と「様式」をどのように考えているかについては、端的に「形式」とは「物語の筋」のことであり、「様式」とは「物語の語り口」のことであるといえよう。つまり「ファンタジィは筋の展開は決まりきっているが、その語り口はきわめて豊穣である」というのが、ここでの彼の主張と理解できる。

 とはいえ実際上これら二つの定義が指し示している作品は、まったく位相の異なるものである。それはアトベリーが一.の定義を大衆作家に属するものとし、二.の定義を野心的な作家のものとしているところに現れている。本来であれば、一つの作品に対して二つの定義をしめし、その是非を議論するべきところを、アトベリーは異なる作品群に、異なる定義を当てはめている。つまりファンタジィには二つの作品群があり、一方は価値が低く、もう一方は価値が高いと論じているのである。

 一考するべきなのは、しかし、アトベリーが文学には「形式」と「様式」の二つの面があることを強調している点である。おそらく彼のファンタジィの二つの定義は、世間一般における意見を単純に汲み取ったものなのだろう。つまり読者は、ファンタジィを批判するときには「形式」において難がある一群の作品を槍玉にあげ、賞賛するときには「様式」においてすばらしい作品に代表をさせるのである。

 このような混乱は、ファンタジィの語の適用範囲の広さからくる混乱と無縁ではない。シェイクスピアやルイス・キャロルなどの古い作品もファンタジィとして扱うとなると、それらを満たす「ファンタジィ」の定義が存在するのか、はなはだ疑問となる事、および、一.の定義は、主に最近のファンタジィ作品についてのものであるという事は、著者自身も指摘しているところである。

 実際、日本においても『竹取物語』や『南総里美八犬伝』などを挙げるまでもなく、多くの歌舞伎・能・人形浄瑠璃・落語の作品群が、ほとんどファンタジィという観点から分析可能である。

 ところで、ある作品がファンタジィかそうでないかというのは、作品の要素における実在性と関連していることは前に論じた通りである。更につけくわえるならば、或る空想的な要素が非実在であるか否かを決定するのは読者の態度に依存していると言える。その点で、一.の定義は「形式」としてのファンタジィの定義としても充分ではない。

 ファンタジィのジャンルに関する定義として、ケネス・J・ザホロスキとロバート・ボイヤーによる「ファンタジーとは、魔法に代表される超自然現象、非合理的なもの、要するに科学主義や合理主義に裏打ちされた現実の枠組みを外れてしまうような現象を扱った作品一般をさす」といったものがあるが、これはこのことを良く示している。或る現象が現実の枠組みを外れているか否かを決定するのは、最終的に読者である。

 いわゆる「パターン」というものは、それが現実の枠組みを外れているかどうかという事には関係ないし、民話や神話といったものにも、表面的なレベルでパターンが存在する。そのような形式を守っていること自体が価値判断の基準となるのではない。「むかしむかしあるところに……」から始まり「めでたしめでたし」で終わるのに何ら問題はない。作品の良し悪しの基準は、ただそれが魅力的であるか否かにかかっている。この点は、新奇なものを文学に求める潮流のなかで、ことさら等閑に付されてきたといえるのではないだろうか。

 また一方で、民話や神話というような古い作品に対しては、そもそも科学主義や合理主義が生まれる以前のものだから、それらをファンタジィと認識した時に、「現実の枠組みを外れてしまうような作品」という定義は有効ではないように思える。しかし「現実の枠組みを外れてしまうような作品」かどうかは、作品そのものに本質的に内在している特徴ではなく、読者の態度によって決定されるものであるから、例え古い時代にはそれが現実的に充分な説得力をもったものだったとしても、現代の私達にとっては、紛れもなく「ファンタジィ」なのである。

 一つの作品が、読者の態度によって「ファンタジィ」とされるかどうかについては、例えばキリスト教の聖書にある「復活」がある人々にとってはファンタジィに属するが、キリスト教徒にとっては、現実に属するということに端的にあらわれているといえるだろう。

 さて、とはいえ、ザホロスキとボイヤーの定義は的を射たものではあるが、より限定された、ミクロな視点ではアトベリーの定義はやはり有効であり、「形式」と「様式」の二面においてとらえたことは興味深い。

 アトベリーは実のところファンタジィの「形式」に関わる批判について、一部の大衆作家の生産する消費物としてのファンタジィと認識しており、あまり注意を払っていない。言及を曖昧にしているところをみると、暗にそれらはファンタジィとしては価値の低い、これまで評価されてきた文学作品と比肩するものではないと言いたいのかもしれない。

 しかし本論全体において一つの目的とするのは、ファンタジィを価値あるものとして輝かせることではなく、それが「いかなるものであるか」という考察を加えることである。それぞれのファンタジィ作品の価値は、その立場から把捉されるべきであり、その点において巧く表現されているかどうかを測量し、検討することに意味がある。

 さて、ここまででアトベリーによるファンタジィの定義を示すとともに、若干の不備を比較検討することができたと思う。一.の定義は「最近の大衆小説としてのファンタジィ」に対するものであり、世間一般の「ファンタジィ」批判は、こういったファンタジィに向けられているものなのである。しかしそのような「形式」自体は本来非難されるべきものではない。通俗的とされながらも一定の人気があるファンタジィ作品というものは、むしろ神話や民話に現れる様々な形式や数々の要素を参照し、引用しているのであり、その理由は単にそれらに人気があり馴染み深いからというものであろう。おそらく非難するべきは、力のある形式に寄りかかってオリジナリティを獲得し得ていないところにある。言うまでもなく「大衆小説としてのファンタジィ」に当てはまらない、しかしそれ自体「ファンタジィ」としても分析可能な、古典的作品といったものは、このような批判を免れているといえる。