本論においては、ファンタジィ作品の分析について、主に『ファンタジィ文学入門』を中心として、その方法に検討をくわえてきた。
まず重要なことは、ファンタジィは「現実/非現実」の境界線にかかわる形式であるということである。この境界線があればこそ、起こった事態に対していかなる態度をとるかという「ためらい」も生まれるのである。ポストモダンの境界線を無視するような振る舞いは、また別種のものだといえる。また、リアリズムの系譜につらなる文学は、現実をのみ克明に描写することを目指すといえよう。そこには、境界線そのものに対する意識は希薄である。
幻想物語と異世界物語ははっきりと区別されるべきである。幻想物語は、多くの場合、現実に非現実が忍び込む形式をとるが、異世界物語は、それ自身の内部において完全に蓋然性のある法則をもち、異なる現実を構築するものである。
それから作品を筋の展開に関わる「形式」と、その語り口に関わる「様式」との二面において把握することは、ファンタジィ作品の解釈に有効である。ファンタジィは、夢や比喩や魔法などといったものによって、いわば空想的な能力によって、ありふれた事柄を様々な色彩で表現する。
いささか充分に論じることができなかった点としては、実在性の問題がある。非現実の領域を扱っていながら、作品がリアルに感じられることを究極的な目的とするトールキンの立場に拠り、パターンにはまっているとか、嘘いつわりの物語である故にファンタジィに価値がないとする考えは退けられるべきである。おそらくファンタジィは最終的に神話となることを望む。これは構造主義的な文脈をも取り込むものであり、人々の思考の枠組みを形成するという点においても神話となるのである。
このコンセプトは魅力的だが、幾分労を要する。トールキンがキリスト教の神話を最も成功したファンタジィであると見做していることからも、その重要性とスケールが伺えるだろう。そしてまたこの点において、我々が日常生活を送る上で必要としている様々な幻想とファンタジィ文学の可能性を結びつけることも可能かもしれない。筆者は『ハリー・ポッター』の人気の裏に、失われた学校や遊びへの幻想と、現代における理想的なそれらのあり方に対する願望を強く感じる。主人公ハリーの日常世界における扱いの悲惨さと、魔法の世界ホグワーツにおける幸福な日々の、あまりといえばあまりにも違いすぎる対称に思わず眩暈がしてしまうのだ。
現実とは如何にも悲惨であり、願望の形象である夢の世界はそれだけ一層強く輝く。必ずしも良いことではない。それらは常に表裏一体なのだから。
そう、ファンタジィは願望、或いは願望充足と密接に関わっている。ファンタジィが読まれる時、あるいは書かれる時、その行為によって願望を表現、または充足させようという動機が明らかに存在している。そしてそれは、願望を抑圧している状況というものを逆照射するのである。この点はとても重要であり、今まで大きく取り上げられなかった部分でもあり、今後より一層の検討が必要だろう。